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  • 山ばな 平八茶屋

    大晦日以来、京都市内では前日に結構な量の積雪があり、遠方からお越し頂く参加者の方々の到着を大変心配していました。しかしそんな心配は無用であったようで、皆様無事に時間通りご到着いただき安堵いたしました。皆様の日頃の行いの良さを感じました。

    事前の会長との打ち合わせの時から、お聞きしていたこと、それは、当社は 21 代続いているが、後継者の男子一子相伝を貫いてきた。そしてそれを家業として守ってきたということでありました。壮大な歴史と伝統を実感できることを楽しみにしておりました。

    会長のご紹介とこの会の開催主旨を述べた後、会長からご講演をいただきました。
    前もってお聞きしたい事項をお渡しさせて頂いておりました。その内容に沿って、大変分かりやすくお話いただきました。特に会長ご自身がこだわっておられたのが、成功談ばかり話しても、聞く人にすんなり受け入れられません。我が身の失敗談や恥ずかしい体験をお話しさせていただいた方が、逆に皆様にとって意義のあることになると思います。とおっしゃっておられました。さすがは古都、京都の老舗のご当主であると恐れ入りました。

    これからそのお話の中で現代の企業経営においても取り入れるべきポイントについて書かせていただきます。

    Ⅰ.平八茶屋の歴史

    1576年創業と言いますから、今から430年余前、時代は安土桃山のことです。越前の国(今の福井県)から京の都への海産物を運ぶ街道として発達した若狭街道(別名 鯖街道)、その街道沿いに旅人の休憩場として茶屋ができたのが平八茶屋の始まりでした。

    その後茶屋を営みながら、旅人が欲する雑貨を扱い、当時の名称が「萬屋平八」と呼ばれたそうです。江戸の中期に入り麦飯とろろ専門店となり、江戸後期には旅籠となりました。

    明治に入り鉄道が発展すると若狭街道が廃れてきました。そこで 15 代目が川魚料理の料理屋として食事の提供を主とするようになりました。約 100 年ほど川魚料理屋として続けてこられ、会長の代で新たに、ぐじ(甘鯛)を使った若狭懐石への変更を図られました。

    そのときのエピソードです。京都の名だたる料亭のご主人や女将さんが毎月輪番制で集う、懇友二日会においてその若狭懐石を出したところ、大先輩の方から「これは平八の料理と違うで」と大変厳しい評価をいただいたそうです。その時会長は 30 歳過ぎのことだったそうです。そこで並ならぬ精進をされ、2 年後にその大先輩に「よう勉強してきているな」と言われ、その又2年後に「これでいいんや」とやっとの思いでお墨付きをいただいたそうです。

    今ではお出しする料理の 95%以上が若狭懐石となり、平八茶屋の名物として、麦とろろ飯に並び称せられるようになったとのことです。

    ここで私が感じたこと①
    料理屋にとってメインの料理を変えることは、時代の流れとともに必要なことではあるのだけれど、その料理を根付かせるには、それ相当の修練が必要である。

    そのことはもちろんのこと、京料理として認めてもらうには周りの料理人のお墨付きが必要なのだということです。

    それだけ京都の料理人は京料理にプライドを持ち、京料理の伝統を皆で守ってい
    こうという意識が強いのだと思いました。

    京都の老舗は数多くありますが、その中には、すっぽん料理 330 年「大市」、昆布一筋 620年「松前屋」、七味の伝統の味を守って 350 年「七味屋本舗」などそのメイン商品を変えず、現在に至っているお店も数多くございます。

    また業種、業態ともに変化しつつ、現在にいたっている老舗もございます。美濃吉は川魚問屋から料亭へ、柊家は魚問屋から旅館へ、という具合です。ここ平八茶屋はどうでしょう。

    歴史を遡れば街道茶屋からの出発ですが、基本的に飲食を伴う料理屋という業種は変えず、その業態は茶屋、萬屋、飲食専門店、旅籠と変化しています。

    変えるべきものは変え、残すものは残すという首尾一貫した方針のもとここまでやってこられました結果です。

    ただ会長が強調しておっしゃっておられたのは、永く企業を続ける秘訣でもありますが、時代に迎合することなく、時代に必要とされる企業となることが必要である、ということでした。

    ここで私が感じたこと②
    その時の流行り廃りに合わせるのではなく、その時代の生活様式、人の身体や感性、経済状況に合わせて中長期的な視野に立った変更をしていくということが時代に必要とされる企業となることではないかと感じました。

    Ⅱ.平八茶屋に綿々と継がれてきた教え

    ①当家主人は料理人であること
    ②料理屋であること。すなわち主人が料理も経営も行う形態であること。
    ③家業であること。

    少し解説を加えますと、

    ①は初めにも申し上げましたが、一子相伝が伝統であり、その味を守るためには主人が料理人であらねばなりません。実子で男子が21代続いたということは驚異的でもありますが、逆に男子が 2 名以上いた場合、後継者以外は店の相続を放棄させ、他の職に就かせるという徹底したものであったことが、平八茶屋が 430 年余り続いてきた理由の一つであることは間違いありません。

    ②近代的な経営を採用されている料理旅館などでは、経営者は料理人を雇い料理長にしている場合が多く、自らは営業、人事、財務などの経営に専任されていることが多いです。

    しかし平八茶屋ではその両方の機能を当家主人である者が担うこととしています。そこに料理旅館とは異なる京都の料理屋たる所以があります。

    ③それだけに余り規模を大きくし過ぎることは得策ではありません。現代表取締役社長でいらっしゃいますご子息の晋吾氏にもお話をお聞きしました。数年前に新宿店をオープンしたところ、一人が全てを見るにはその人材育成面・人事管理面で無理があったといいます。

    結果、昨年退店となりました。その際思われたのは、この京都の本店に全力を投じることで、更に充実した平八茶屋にしていきたいということでした。やはり家業に徹するという家訓に従うことが企業を守ることとなります。

    ここで私が感じたこと③
    京都に店があることは、京都の水、京都の風土を生かして、そこで作りそこで消費すると
    いう「地産地消」の精神に則っており、地元の方とともに商売させていただくということ
    が継続の秘訣となるのでしょう。

    Ⅲ.変えずに守ってきたこと

    ①麦飯とろろ一筋に守ってきたこと
    このことでは次のようなエピソードをお話しいただきました。

    「一度とろろ麦飯を辞めようかと思ったことがある。それは高島屋ごちそう展でのこと。

    均一料金で京都の老舗料理屋が 6 店舗集まり、季節の料理を出していくという競演の場があった。他店は色彩々のお料理を出しているが、当店はシンプルなとろろ麦飯がメインであった。どうしても人目は華やかな方に向かい、売上が上がらなかった。

    こちらも見栄えを良くしようと色彩々の食材を使った料理も出したところ、他店に並ぶ売上となった。料理では決して負けていないと実感した。

    しかし逆に言えば、これは麦飯とろろをお客様が見てくれていないのではないかという疑問が湧き上がった。麦飯とろろをやめようかと、麦飯とろろなしの品書きを書いてみた。何か割り切れない気色悪さを感じていた。

    やはり当店には麦飯とろろはなくてはならないものと思い、麦飯とろろの存続を決意した。これには私の中にこだわりがあった。とろろにはジアスターゼという消化酵素が多く含まれており、体、特に胃腸にとっても良いということを当店の売りとして出していた。後にこのことがお客様にも受け入れられ、他店との差別化となり、強みとなっていった。」

    ここに老舗としてのこだわりを感じました。

    ②建物については歴史的建造物が数多く残されており、手入れには資金を注ぎ込んででも守っていく強い意志を感じました。

    特に寛政 9 年建立の記録が遺された母屋、数寄屋造の座敷;(これには三間もののまっすぐな栗の木が張りとして使われている)、また大正時代の書院造りの座敷、入口にある騎牛門は萩から取り寄せた物で 300 年以上の歴史がある、など数限りなくそのようなものが沢山あります。

    ここで私が感じたこと④
    先祖代々引き継がれてきたものには、その DNA がこもっているから、そう簡単に捨てられるものではなく、いつも身近に置いておかねばならぬ商品があるということ。そして歴史は自分の力だけでは絶対につくることの出来ないこと。だからその想いが込められた家屋はどうしても守っていかねばならないということ。

    Ⅳ.変えてきたこと

    ① 15代目から19代目まで100年続いた生粋の川魚料理を残すため、若狭懐石を創り上げた

    はじめに申し上げた通り、時代を先読みしたからこその決断であったと思います。

    ② 時代にあった単価、麦とろ膳を開発した

    しかしはじめは全く売れず、旅行業者と提携すればいいとアドバイスをもらうと旅行業者とも交渉しましたが、手数料が差し引かれることを聞いた19代目のご主人は

    「そんなもん払うくらいなら、仕入れに金かけてお客様に喜んでもらうんや。」

    という方針で手数料を一切払わないやり方で旅行業者からの送客も歓迎しませんでした。だからこれもすぐにはお客様の増加には繋がりませんでした。

    今まで営業なんてやられたことのなかった会長が、様々な代理店の営業所巡りを根気よく続けて来られました。その結果、ランチタイムの麦飯とろ膳が評判となり世間に広まることとなりました。営業活動を始めたことが大きく売り上げに貢献しました。

    ③設備については、お客様目線で見直していく

    如何に楽しんでいただけるかを基本に、外国人の方々、若い方々も多くなったことを考え、畳のお部屋でも椅子席をご用意しました。

    また、全館洋式トイレを設備し、かま風呂は平八茶屋の目玉の一つです。

    以前はこの地域の数十軒の料理旅館が、かま風呂を持っていたそうですが、今では数えるほどとなりました。和風のサウナ的な珍しいもので、これもお客様に喜んでいただける名物として新たに取り入れてきたものといえます。

    ここで私が感じたこと⑤
    待ちの姿勢から攻めの姿勢への変換。如何にお客様に当店を知っていただくか、如何にお客様に喜んでいただくかを自らアピールしていくことが、現代では必要となってきました。
    料理人であると同時に経営者であることが求められる料理屋の当主は、料理の質を維持・発展させると同時に、お客様目線の営業活動を率先して行っていくことも、企業継続の秘訣といえます。

    Ⅴ.ビジョンの明示と従業員育成

    家業として営んでこられた料理屋では珍しく、経営計画書を 25 年以上作成し続けてこられました。その作成に至った経緯をお話いただきました。

    今から 25 年前、古都税の問題が京都の町に吹き荒れた頃、世の中はバブルの絶頂期で好景気に沸いていましたが、京都の観光ビジネスは大不況に陥っていました。

    その影響は当社にも大打撃を与えました。会長はこの危機を乗り越えるため、様々な施策を打ち出されました。従業員の定昇給停止もその一環でした。

    ただ従業員だけが苦しむのではなく、会長自らも経営コンサルタントの講演を聴きに行かれたり、相談をされたりと、必死に経営を勉強されました。

    そこで得たことは、料理屋は料理さえうまければ店は繁盛すると思っていましたが、実はそれだけではない要素があることを知ったことでした。

    また料理屋は料理がうまいのは当たり前で、そこからが勝負です。価格・風情・おもてなしの心など大切なことは沢山ありました。また師事したコンサルタントから経営計画書の作成をアドバイスされました。そのときのコンサルタントの言葉が忘れられません。

    「今の御社の経営では、経営者としては20%以下のレベルです。自ら勉強をして経営を学び、その成果として経営計画書を作成しましょう。」

    ここから計画書の作成が始まりました。後継を譲った今も社長により経営計画書の作成は引き継がれています。当社は 3 月決算ですので、1 月から作成を始めます。年初に時流を読む講演会を聞き、また自分の五感で感じた時代の流れをつかみ、次年度の予算と目標を定め、作成します。

    この計画書は毎月 1回各部門合同のミーティングで読み直し、目標達成に向け対策を練るのです。最近感じられるのは、社員が経営者に近い意識を持つ者として育ってきたことです。

    ここで私が感じたこと⑥
    最近感じられるのは、社員が経営者に近い意識を持つ者として育ってきたことです。と会
    長はお話になりました。この効果は全員一体となって店を守っていく上で、根本のところ
    であり、危機に立たされたときに出てくるものと思います。目に見えない老舗の強みと思
    います。

    Ⅵ.長く企業を続ける秘訣

    創業者はマラソンランナーといえます。創業はその一人の力で立ち上げたものですから、途中棄権しても自分だけの負けで済みます。

    我々は企業の継承者を駅伝ランナーに例えます。駅伝は、厳しいものです。一人のランナーが棄権すれば、その後にどんなにすばらしい選手がいてもそのレースは意味のないものとなります。

    先人の血と汗の結晶を、途中棄権すれば後へは渡せません。また結果を残すことを考えれば自分の区間を精一杯走り、トップ集団についていくことが求められます。そしてタスキを確実に次へ渡していかねばなりません。後継者を育てることも求められると思います。

    ここで私が感じたこと⑦
    老舗の経営者は、自分自身の責任は非常に重く、深いものと感じることが必要でしょう。
    先人への思い、後輩への思い、その中に挟まれて責任を否が応でも感じないといけません。
    それだけのやりがいもあり、達成感も他に比べ物のないものでしょう。

    Ⅶ.今後の経営戦略

    維持することも難しいこと。続けることが至上命題であるので縮小しても続けることを考えるといいます。それは家業に徹することで継続は可能です。但し本業を一部削り、経営の規模を縮小すると戻らないといいます。

    暖簾は守るものではなく革新を繰り返していくことで、その歴史が築かれていくものです。具体的な例を挙げていただきました。歴史の長さだけをいえば、奈良も滋賀も古い街であります。しかし奈良や滋賀の古いものは史跡として残されており、生活の一部とはなっていません。

    京都は変えるべきものを変え、残すべきものをしっかり区分することで歴史の中で生き続けているのです。町家の再利用はいい例だと思います。

    ここで私が感じたこと⑧
    継続が全てを優先するということ。しかし続けるためには、時代を読み、変革を繰り返し、環境に適合していかねばなりません。これはダーウィンの進化論にも記されています。まだ見ぬ未来を怖がって何もしないのではなく、継続しようという気持ちは絶対変えずに様々な課題に立ち向かっていくことがこれからの経営に必須であると思います。

    最後に、参加者の方からの感想、自社で変えないものをお話いただきました。一部を抜粋します。

    ・ 時代の流れに合わせて、必要な形態に変えて行くこと、それが良いことかどうかは後にならないと分からないこと、今は自分を信じて突き進んでいくことに間違いはないと確信が持てた。

    ・ 会社の名称・屋号には創業者の想い、その歴史が刻み込まれており、地域にも深く染み込んでいる。ここだけは変えてはならないと思っている。

    ・ 後継者育成には子供の頃からの環境が大事。親や従業員が楽しそうに笑顔で働いている姿をいつも見ていると、いつの間にか子供は家業を継ぐことに抵抗がなくなる。身近に感じさせることが必要である。

    ・ 自社の商品にこだわりをもつこと。それが自社の存在意義となり、残すべきコアな部分となる。会長曰く「時代に迎合せず、時代に必要とされる企業となる」が究極であろう。

    以 上

     

     

     

     

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    この記事を書いた人
    京都100年企業
    林 勇作

    1965年8月28日生まれ
    大阪市出身

    今後の日本の中小企業の手本となる魅力ある強い企業体の創出に最大限の力を注ぎます。会員様と共に永続的な成長と発展を図り、会員様と共に幸せな人生を実現します。

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