今から12年前の2005年のことになります。今年50の大台を迎えた私も、まだ30代の半ばで、独身仲間とよくつるんでいたころのことです。
勤めていたセキュリティ会社の元先輩の男性に、仲良しの同僚の女性3人で、憧れの貴船の床に連れて行ってもらいました。貴船の床といえば、一見ではなかなか予約が取れないと聞いていたのですが、その元先輩は、以前に知り合いの方に連れて行ってもらったそうで、今回もその知り合いの方の口利きで、予約をとってもらったとのことでした。たしか8月の日曜日だったと思います。人は多いし、京都の夏はうだるような暑さです。でも、わざわざ私たちのために予約を取って、こうして連れてきてくれたことがまずうれしくて、3人とも大はしゃぎでした。
出町柳から叡山電車に乗って、すっかり旅気分です。電車が町からどんどん山に入って進み、私たちは初めての床にわくわくしながら、アユの塩焼きだ天ぷらだと言い合っていました。貴船に着くと、街中と比べてかなり涼しい風が吹いて、人は多いながらも、山の中のひっそりとした風情も感じられます。
駅から貴船神社に向かう途中の参道に、ずらっと並ぶ店の中に、予約してもらった床のお店がありました。入り口は普通のお茶屋さんみたいですが、中に入っていくと、広い畳敷きの部屋の向こうに川が流れ、その川の上に板張りの床が広がっていました。川には緑が茂り、自然のシェードとなって日陰を作ってくれています。川の水音が聞こえ、目にも耳にも涼しさが感じられました。これが床だ、さすが京都の老舗とみんな気持ちがあがります。
そして、先付に始まり、刺身やてんぷらなど次々に料理が運ばれてきます。予約を取ってくれた先輩に3人でビールをついで、乾杯し、小さな宴が始まりました。鯉の洗いやメインのアユの塩焼き、そうめんや京漬物、はしとビールが進んでいきます。料理はどれもあでやかで、目にもおいしい京料理です。さすが老舗の床という感じで、初めての私たちには感動ものでした。しばらく料理の話題や現在の会社の話題などで盛り上がり、ビールがなくなってきました。料理を運んできてくれていた女の人を振り返って探しますが、誰も見当たりません。仕方なく、店の中に立って行って、お店の人に声を掛けました。ビール2本下さいというと、愛想よく受け答えしてくれました。
私は席に戻って、みんなの話の輪に加わりながら、ビールを待っていたのですが、なかなか出てきません。確かに床にはほかのお客さんもたくさんいるのですが、だいたい料理は運び終わって、手が足りないようにも見えません。元先輩のグラスが空いてしまったので、しびれを切らして店の人に言いに行こうかとしたころ、やっとビールが出てきました。持ってきてくれたのは、最初に料理を運んできてくれていた女の人で、店の中にいた、私がビールを頼んだ人ではありませんでした。せっかく楽しく飲んで食べて盛り上がっているので、あえてビールが遅いとみんなの前で文句をいう気にならず、ありがとうとお礼を言ってビールを受け取ったのですが、なんでわざわざこの人が持ってきたのだろう、それも結構な時間がたってからと、不審に思っていました。
その後、トイレに行くときに、なんとなく店の中で働く人の様子をうかがっていると、どうもそれぞれに担当の席のようなものが決まっているようでした。パタパタと働いている人がいる傍らで、二人で立ち話をしている人もいます。客の立場からしたら、誰でもいいから手が空いている人がビールを持ってきてくれればそれでよかったのです。
わざわざ手がふさがっている人が担当だからといって、手があくまで放置するなんて、サービス業としてはいかがなものかと感じました。その場では、連れてきてくれた先輩に気を遣わせたくなかったので、自分の心の中だけにとどめることにしたのですが、老舗に対する期待が大きかっただけに、私の楽しかった気持ちがしぼんでいったことは言うまでもありませんでした。
しばらくして、会社で同僚とその時の思い出話をする機会があり、そこでやっとその時の事情を打ち明け、愚痴を聞いてもらってやっとすっきりしました。お客さんに対して責任を持つための当番制かもしれませんが、それに固執するあまり、サービスがおろそかになるなんて、本末転倒ではないでしょうか。老舗のイメージが私の中で崩壊した出来事で、場所の雰囲気も料理もよかっただけに、とても残念でした。