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    6代目西村勝社長に先ずは柊家の歴史についてお話いただきました。

    柊家の歴史

    1818年(文政元年)先祖が福井県から上京し、庄屋として京都に移り住みました。初代庄五郎は運送業として開業し、同時に鯖街道を下って入ってきた海の魚を扱う海産物商も営んでいました。これが柊家の始まりでした。

    その名の由来は下鴨神社の境内にある比良木神社です。邪気を祓う柊の木が自生するこの神社に先祖は深く帰依し、それになぞらえ屋号を「柊家」と致しました。

    店が旅人たちが前を行き交う街道沿いにありましたので、お仲間の商人が泊めてほしいという求めに応える形で宿もしておりました。

    二代目庄五郎(定次郎)が1864年(文久元年)東海道中の終点である三条の地で旅籠を始めました。幕末の時代でもありましたので、維新の志士が泊まられたり、特に明治になってからは政府の大臣達も定宿にされていました。

    二代目は刀の鍔目貫(つばめぬき)の技に長じており、柊家政貫と号するまでとなりました。

    三代目庄五郎は明治政府の要人のみならず、公家、華族、更には文化人の方々、特に林芙美子先生、川端康成先生にもご利用頂くようになりました。後に柊家の名物仲居が書した「おこしやす」という書籍の中でもそれらの方々の思い出が綴られています。

    大正の2年大正天皇の即位式が京都で行われました。その時の内閣の大臣が来京され柊家をご利用になりました。

    1914年に始まった第一次世界大戦中には、東郷平八郎元帥も宿泊されました。その時代は大変景気もよく、軍人の方の定宿としても大変栄えました。その後東京八重洲や京都の八瀬遊園の地に支店も出しました。(現在はございません)

    そして第二次世界大戦直前では、厳しい世情もありお役人達が食料を持参して宿泊して頂いたり、仕出屋で料理をとって頂くなど人手を減らして経営しておりました。

    後に中興の祖であったとされる四代目の時代に入りました。この頃から庄五郎の名の世襲はなくなりました。
    就任当初は大変厳しい経営環境にありました。天災や政府による道路拡張施策のため強制撤去などから2店舗あった支店は閉鎖され、本館自体も部屋数が大幅に減らされました。

    しかし四代目は奮闘され1955年からの朝鮮戦争特需に乗って、業績を上げ、一部の土地を買い戻し、部屋数も7部屋増築し、元に戻しました。
    最大の功績は、1959年柊家別館(14部屋)を購入し、本館よりリーズナブルな価格で泊まることのできるものとしました。それはこれからの高度成長時代を見極め、旅行需要が高まり、京都への旅行者の利用が増えると見込んだためでした。それが後に本館を支える事となりました。

    五代目の時代に入り、京都は和歌山の白浜に並び、新婚旅行のメッカとなりました。外国人旅行客も京都に多く来るようになりました。これらの旅行客に来ていただけるよう、口コミ営業に加え、いち早く大手旅行代理店とも提携し、広告宣伝も行いました。

    その効果が出て、1964年の東京オリンピック、1970年大阪万博では内外から多くのお客様にご利用いただきました。設備も修繕を行い、気持よくお泊りいただける館と致しました。

    そうこうするうちに1973年のオイルショックが起こりました。旅行ブームは一気に冷え込み、旅館業も冬の時代に入ったのですが、これまでのお客様に支えられ柊家はなんとか利益をを出しておりました。

    六代目現社長の代になり、まさに大きな変換期が訪れました。1978年の第二次オイルショックの影響を受け、ますます厳しい旅館業界でしたが、ここであえて部屋数を減らし、本来老舗旅館が持つ格式の高さを活かし、高価格化志向へ転換しました。

    ただし一度に多くの投資は危険が伴います。自己資産の中で投資を行いました。そのため通常1年でできる改装改修も3年がかりで行うということもありました。

    しかし世の中は1989年以降バブルが弾け、ますます低価格志向が進みました。実際本館の稼働率は40%を切り、別館に頼ることとなりました。別館では時代に合わせた価格で老舗の格式を感じさせてもらえるとあって稼働率は80%を超えておりました。別館が柊家を救う時代でございました。

    2003年以降時代は二極分化がますます顕著となりました。ここでもブランドである本物志向の本館とリーズナブルな価格志向の別館が上手くバランスし、生き残りができたと思います。

    そして2006年、本物志向を更に研ぎ澄ませるため、部屋の広さにもこだわり、その新しさの中に格式を感じさせる新館が完成しました。現在に至っております。

    柊家が続いてきた理由

    1.経営理念についてお話します

    三方よしが基本にあります。お客様、業者様、世間、従業員皆が喜んでいただけることが最も重要です。

    そして残すべきものと変えるべきものをしっかりと区分して経営に当たります。柊家が残すべきものは和の文化の継承者として、たたみの温かさ、和室の希少価値を残すこと。

    そして玄関に掲げられた額に書かれた言葉
    「来者如帰(らいしゃにょき):我が家に帰って来られたように、くつろいでいただきたい」
    に表される家族のように暖かく、控えめなサービスを創業以来大切に守り伝えて参りました。

    そして変えるべきものとして、これまでの歴史を見ても分かるように、時代の移り変わりを先に読み取って、時代に求められる形態に素早く対応していくことと言えます。

    2.従業員教育はここ柊家では大変特徴的なことがありました。

    前述の名物仲居の話です。仲居として60年柊家に仕えてきた田口八重さんは昭和、平成の柊家の伝統を守り伝えてきた方だと言っても過言ではないでしょう。

    「もともと覚えが悪く柊家に来た当時は失敗ばかり、しかし自分は人より覚えが悪いのだからと何でもメモにとって、完全に覚えるまで何回も何百回も繰り返し見ていました。また好奇心が旺盛で何でも知りたいという思いで、勉強も常に欠かしませんでした。(栄光出版社 田口八重著「おいでやす」より)」

    そうしたかいあって柊家には田口八重ありとまで言われ、歴代の女将がこの八重さんに最初の旅館業のいろはを学んだといいます。

    現女将の西村明美様曰く「仲居だった田口八重が書いた“おこしやす”の本はいつも手元において、何かあった時には必ず開くようにしています。私にとって心の拠り所のような本です。」とのことです。

    時代の求めの応じた対応を重んじる柊家ですから、若い方の教育も時代に合わせてやり方を変えて、今風のおもてなしを理解し、実践していただくようにしています。

    今や海外から、特に欧米のお客様が多くなり、海外への発信も重要な戦略となっています。メールやHPを含め、新しいツールへの理解も必要です。そうしたことも含めて従業員には勉強してもらっています。

    また後継者のお話ですが、実は三代目から現六代目まで実子と養子が交互に就任しています。これも実は継続には重要な要素かもしれません。

    実子である三代目、五代目は堅実に守る経営をしてきました。
    養子である四代目と六代目は思い切った改革を実施してきました。おそらくあまりしがらみがないということがあったのでしょう。大きな投資をしてきました。そのことが時代のニーズにうまく合っていたとも言えるでしょう。

    確かに実子の後継者も東京支店の出店はしましたが、本体を揺るがすようなものではなく、大きな借入もせず、自己資金の範疇でしてきました。しかし養子の後継者は多少のリスクを負っても時代の求める変化に対応すべく、大胆に変えてきたといえるでしょう。

    その象徴が別館の購入と新館の建築でしょう。
    特のその新館に寄せる現社長の思いは、そのコンセプトが大変明確で、老舗旅館ならではのものでした。

    快適な空間の提供ということで、居間以外に別に控えの間を備えました。お客様の立場 から部屋に入る前の待機の場としての機能的な意味もあります。くつろぎの場(書籍もおいております)でもあります。

    また老舗旅館には珍しい洋間でベットの部屋もあります。しかし建材、デザイン全てにおいて和のテイストを余すところ無く取り入れた大変落ち着きのある洋間です。ポストモダンとして新しい日本人の暮らしに合わせたものでしょう。

    実際今後の後継者としては順番的には実子の番ですが、現社長には女性三名、男性一名のお子様がおられます。誰でもいいのですが、最後の決め手は本当の意味で継ぐ覚悟が持てる者に継がせたいとのことでした。また兄弟で共同経営は難しいのでこれは避けたいとのことでした。

    3.地域との交流で言えば、京都の三大老舗旅館が柊家の付近に柊家を含め三軒ございます。

    炭屋様と俵屋様です。しかしこの三軒は見事に顧客層を区分し、独自の戦略を持っておられます。そのため競合することなく、老舗の旅館の会も作られています。

    俵屋様はスチーブ・ジョブズの定宿であったことでも有名なほど、外国人顧客が多く、実に六割以上ということです。二世の方も多いと聞いています。それだけに日本のおもてなしを海外に発信されるという重要な役割を持たれています。

    炭屋様は昔からお茶人の方に好まれ、多くの方が利用されています。毎月定例のお茶会がここ炭屋様で行われています。

    柊家はそんな中にあって皆さまに愛される事をモットーに、格があってもかくばらない、先ほどの来者如帰の精神をもって、家族のようなほっこり感を大事にされた旅館です。

    それぞれの特徴に合わせ、お客様がお選びになられるのです。良きライバルは必要ですが、競合してお互いを排除し合う関係は長くは続きません。協調しあうことが必要なのです。

    三つの仮説の検証

    西村勝社長からお話しいただいた中から100年企業になるための3つの仮説の実証検証に当たるものをピックアップさせていただき再掲しました。

    Ⅰ.残すべきものと変えるべきものを明確に区分する

    1.残すべきもの

    経営理念として三方よしが基本にあります。お客様、業者様、世間、従業員皆が喜んでいただけることが最も重要です。

    2.残すべきもの

    和の文化の継承者として、たたみの温かさ、和室の希少価値を残すこと。そして玄関に掲げられた額に書かれたこの言葉「来者如帰(らいしゃにょき):我が家に帰って来られたように、くつろいでいただきたい」に表される家族のように暖かく、控えめなサービスを創業以来大切に守り伝えて参りました。

    3.変えるべきもの

    時代の移り変わりを先に読み取って、時代に求められる形態に素早く対応していくこと。例えば、柊家別館(14部屋)を購入し、本館よりリーズナブルな価格で泊まることのできるものとしました。

    それはこれからの高度成長時代を見極め、旅行需要が高まり、京都への旅行者の利用が増えると見込んだためでした。

    また時代は二極分化がますます顕著となりました。本館はあえて部屋数を減らし、本来老舗旅館が持つ格式の高さを活かすために、高価格化志向へ転換しました。部屋の広さにもこだわり、その新しさの中に格式を感じさせる新館を完成させました。

    Ⅱ.将来のビジョンを示し、その達成のために必要な人財をトップ自ら育てる

    1.事業のビジョンを明確に伝える

    時代の求めの応じた対応を重んじる柊家ですから、若い方の教育も時代に合わせやり方を変えて、今風のおもてなしを理解し、実践していただくようにしています。

    2.ビジョン達成のために必要な人財を自ら育てる

    仲居として60年柊家に仕えてこられた田口八重さんは昭和、平成の柊家の伝統を守り伝えてきた方だと言っても過言ではないでしょう。その方に歴代の女将も柊家の伝統を学んだといいます。そうした方がいらっしゃるのも、老舗旅館ならではでしょう。

    Ⅲ.売り手よし、買い手よし、世間もっとよし

    京都の三大老舗旅館が柊家の付近に柊家を含め三軒ございます。炭屋様と俵屋様です。しかしこの三軒は見事に顧客層を区分し、独自の戦略を持っておられます。そのため競合することなく、それぞれの特徴に合わせ、お客様がお選びになられるのです。良きライバルは必要ですが、競合してお互いを排除し合う関係は長くは続きません。協調しあうことが必要なのです。

    当日参加いただいた研究会会員の感想を挙げます。

    ・税理士のサービスにおける顧客満足度とはなにかを考える機会となった。(京都市 税理士)

    ・女将に聞いてみたいことがある。代々のご当主のおもてなしの心をどうやって従業員に伝えているのか?(保険代理店 京都市)

    ・さりげないなかに、居心地の良いサービスを受けていると感じた。何気なく、人に尽くすこと、当たり前のことを当たり前のようにすることができるかが大事。自分自身どこからできるか考えてみたい。インソール販売代理店 京都市)

    ・最近はネットを見て来る一見の客も増えていると思う。客の質の低下が柊家の格を下げることにならないか。客とお店が互いに育てることが必要なのだと思う。この先はどうなっていくのだろうか。(厨房機器メー カー 名古屋市)

    ・現社長はブランドに対する自信を持っておられる。自分の会社の創業者の想いが社員に本当に伝わっているか、心配である。(外資系生保会社 大阪府)

    ・旅館のコンセプトがそれぞれ違うお部屋の様子にもイメージとして残っている。経営は外部の要因が大きく影響する。これまでの経験が将来にも活かしていけるのではと思った。(不動産賃貸業 京都市)

    ・短い時間でしたが、旅行気分が味わえた。どの部屋も町中にあるにも関わらず、大変静かで窓からの景色はそれを感じさせない工夫がされている。おもてなしの心を玄関の打水が癒やしの効果を出し、良い気持ちにさせてくれたところに感じた。(線香製造販売 京都市)

    ・福島県から来たが、助けてもらって当たり前の気持ちを捨て、皆が支えあう意識が必要と感じた。(ガス機器販売 福島県)
    以 上

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    この記事を書いた人
    京都100年企業
    林 勇作

    1965年8月28日生まれ
    大阪市出身

    今後の日本の中小企業の手本となる魅力ある強い企業体の創出に最大限の力を注ぎます。会員様と共に永続的な成長と発展を図り、会員様と共に幸せな人生を実現します。

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