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    訪問して知り得た情報、なるほどと感心したこと

    1.事業の成り立ち

    祖先は滋賀県で和傘作りを始めていたと言われている。しかし日吉屋の創業者は江戸時代の後期、初代墨蔵が五条河原町本覚寺周辺で和傘屋を構える。150年ほど前のことである。その後、上京区東西町に移転、二代目 与三次郎の代に皇女ゆかりの尼寺である百々御所(宝鏡寺)の門前に店舗を構え、以来、三代目 伊三郎、四代目 江美子と百数十年に渡り、和傘を作り続けてきた。現在5代目の西堀耕太郎が代表取締役となっ
    ているが、実は直系ではなく江美子氏の娘の配偶者である。これには少し説明を要する。

    江美子の時代はバブル経済から、その後の失われた20年と呼ばれるデフレ期を生き残ってはいたものの、経営は風前の灯状態で、売上も年間数百万とかなり厳しかった。江美子氏は子供にこんな厳しい事業を継がすことは考えておらず、自分の代でひっそりと店をたたもうと考えていた。そこへ現社長の西堀氏が娘の彼氏として遊びに来た。何度か店舗を訪れるうち、和傘の魅力に取りつかれた西堀氏は真剣にこの事業を継げないかと考えていた。周りの反対もあったが、事業を承継することを4代目江美子氏から承諾を得て、2003年、代表取締役に就任することとなった。

    西堀氏の前職は公務員であり、海外事業の通訳も手掛けていたほどで英語も堪能であった。最後の所属は固定資産税課であった。そんな西堀氏であったが、心のなかに日本で売れないなら、海外へという目論見がそのとき既にあったのではないかと思う。

    和傘の歴史を振り返ってみると、その生産のピークは実は比較的近世であり、太平洋戦争の戦中、戦後がピークであった。しかし分業体制で制作される和傘の製造工程は350年ほど前に確立されていた。その当時傘をさすという習慣は一般民衆には無く、それこそ当時の貴族階級が魔除けとして、更に権威の象徴として使用した。この頃はまだ開閉ができないものだった。また江戸時代中期には浮世絵の役者が、おめかしの一部、流行りモノとして使われた。芸事の中では、歌舞伎助六の舞台で使用されたと記録がある。

    この頃の傘は開閉が可能となっていた。徐々に防水性を持たせて庶民の雨具へと変貌を遂げる。それがやっと一般民衆に広まって使用しだしたのが昭和の初期からということである。その当時京都には200件以上の和傘屋があったそうである。(今では京都の和傘屋は日吉屋だけとなった)ピーク当時の1949年には1400万本もの生産量であったが、2010年にはほぼ0に近い状態である。

    そんな状態の和傘業界に身を投じた西堀氏は言う。最初は全然売れなかった。どこに置く、どこで使うという明確なコンセプトが無く、需要を呼び起こすことは不可能に近かった。そこで新規事業として和傘の新たな使用法を考えることとした。

    そんな中で、たまたま毎年イタリアのミラノ・サローネで行われるインテリアの国際見本市を知った。そこでの出店を考えたのである。それは和傘を照明器具にして再利用するというものであった。無印良品のデザイナーである三宅一成氏との出会いが和傘に新しい命を吹き込んだのであった。古都里シリーズの誕生であった。和傘の機能を利用して上部を開くことで円筒型の折りたたみ式照明器具とした。

    これには和傘の優れた点である、
    ①竹骨48本から成るデザイン性
    ②和紙の透過光の美しく柔らかい性質
    ③折り畳み可能な利便性
    をうまく取り入れたものであった。

    最初は虫カゴのランプのようで気が乗らなかったが、意外にもお客様の受けが良かったことから、西堀氏は気付かされることになる。商売の基本はお客様の声であるということを。ミラノでの出店後はマスコミの報道や新規の取引先の開拓にも恵まれ、そしてGOOD Design賞を受賞した。

    売るためのコツもわかってきた。商品の品質、機能を高める努力も大切だが、良い物と分かって頂く努力(広報、プロモーション、パッケージ、ストーリー)も同じくらい大事であると。

    意外性と希少性の大切さも知った。ユニークさとは通常のものとのギャップが有ること。顧客は驚くことで認知し、関心を持ち、購入意欲をわかせるのだ。そこに京都1軒残った日吉屋のストーリーを組み合わせることで商品価値を生んだのである。そして日吉屋の和傘は意外性と希少性と歴史とのコラボによる絶対的な価値を生み出したのである。

    特に海外向けのメディアには受けが良かった。海外の有名ファッション専門誌に取り上げられ、ついにはあのTIMEにも掲載された。ホテルのインテリアはもちろん、セレブのご自宅の玄関吹き抜けにシャンデリアのように組み合わされた日吉屋の照明器具がところ狭しと飾られたのである。

    当初から海外に目を向けていた西堀氏のプランは見事に的中し、今や照明器具の古都里シリーズの売上は1/3が海外となった。

    海外進出のポイントは4つである。
    ①現地の生活で実際使える商品であること
    ②オンリーワン商品であること
    ③現地安全基準をクリアすること
    ④適正価格、適正な掛率の商品であること

    また海外での市場は大変広い。月に100本しか売れなくても10ヶ所で展開すれば、100本×10ヶ所=1000本売れる。

    和傘と照明器具をうまく合わせて利潤を取れるように交渉することも学んだ。またうまく現地の行政とも手を組み、展示会へ出品することで、その展示会の主催者に認められると別の場所でも展示会に参加できる。フランス、ドイツではその手法がうまくいき、代理店契約につながった。こうしたノウハウはこれから新規事業で海外に出る企業にとって、生きたノウハウに成るものである。

    今後の展開について、西堀氏は次のように語る。
    普通のモノ(発明者さえ誰も知らないモノ)、そのような商品を何十年たっても生活の中に残していきたい。伝統が革新を経て伝統物となるように。それは家業として引き継がれるものでもあるかもしれない。
    家業とは誰でもできる事をコツコツとやっていくことが大事なものである。
    そこに継続は力なりという教えを、老舗である日吉屋から学んだ。
    今後の商品開発として、照明器具の形態を巨大化して、被災地での簡易テントにする試みも進めている。
    また自然に優しい素材である竹材の軸に自然に還るナイロン素材を組み合わせた、現代風の和傘モデルの試作を行なっている。これはビニール傘の廃棄が社会問題になっていることから生まれてきた発想である。
    日吉屋の挑戦は始まったばかりである。

    西堀さんからお話しいただいた中から100年企業になるための3つの仮説の実証検証に当たるものをピックアップさせていただきました。

    Ⅰ.残すべきものと変えるべきものを明確に区分する

    1.残すべきもの:発明者も知らない普通のものを生活の中でずっと残したい。

    2. 残すべきもの:和傘が持つ機能の強みを残しつつ、新しい形態を探っていく。

    3.変えるべきもの:販路の開拓は海外市場も視野に入れて、現地に合わせた改良を顧客の声を聞きながら行なっていくこと。

    Ⅱ.将来のビジョンを示し、その達成のために必要な人財をトップ自ら育てる

    1. 事業のビジョンを明確に伝える

    自社の商品が自然災害でご苦労されている方へ
    の助けにならないか、自然環境の保護のために何か自社商品で役立てられないか
    そのような視点で商品開発を真剣に取り組んでいくことを示す。

    2. ビジョン達成のために必要な人財を自ら育てる

    自らすすんで営業に出かけ、そこ
    で得られた知恵、ノウハウをさまざまなメディアを通じて発信し続けることで、従
    業員自ら自立し成長する過程をたどるものと思われる。

    Ⅲ.売り手よし、買い手よし、世間もっとよし

    1. 社会への貢献として

    社長自身が築かれた海外市場とのパイプを、ものづくりを
    している企業へ提供することで、さらなる日本の伝統産業の復興を目指している。
    実際に日吉屋様の紹介でマレーシア、シンガポールと販路を拡げた染色事業者が
    出てきている。
    以 上

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    この記事を書いた人
    京都100年企業
    林 勇作

    1965年8月28日生まれ
    大阪市出身

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